ドミトリーの中は外見と違わずに、黒かった。 目に見えぬ闇の中で、何者かの視線が突き刺さったような。俺の神経が高ぶっているのか。 俺達はまず部屋に行った。紫雨先輩の話によると、部屋割は入学式が 終わった後に決めたのだけど、不在だった俺達だけは、余った部屋が割り当てられたらしい。 奥まった場所にぽんと投げ出されたような、その部屋は存外に広く二人では持て余しそうだ。 先にドミトリーに到着していた俺達の荷物が、寒々しく存在を主張していた。 本来は数人で使うはずの部屋だから、そのせいなんだろう。闇が四方から迫ってくるように、 肌寒さがたゆたっていた。
「地下水を床下に流して、部屋を冷やしてるんだ」
足下で、紫雨が言った。寒いのか毛を震わせている。
「ここでは五感を使ってないと、ダメだぜ。もし普段より寒いと感じたら、それは飯の合図だ」

犬の足下にしゃがんで、足を抱えた赤雷がごくりと息を呑んだ。 冬の清流を思わせる程に寒い冷気に、川を想って、懐かしい。 まだ家を出て半日程なのにもう、ホームシックにかかっているのか、俺は。 慣れない環境で右往左往したから、消耗したのかもしれない。 俺は荷物を軽く解いて中から、青いタオルを取りだした。

「ご、は、ん?」
間が空いた後に、赤雷が言葉を発した。
「そうだ、飯だ。さぁ、行こうぜ、食べに。ついでに食堂まで、案内してやるからさ」
立ち上がった紫雨に、俺はタオルを掛けた。
「な、なんだよ青馬、いきなし!うおっあったけー」
「毛布でなくて悪いが、これで少しは、寒さが凌げるだろ?さっきのお礼だ」
「さんきゅぅ!」

動くことで落ちてしまわぬよう、俺はさらにタオルを犬の体に巻き付けて結んだ。 犬は歩き出した、追って俺も部屋を出た。 ほんとは赤雷にも、何か掛けてやりたかったのだけど、俺は青いのしか持ってなかった。 赤雷には、赤いのを身につけてて欲しいんだ。

食堂は最上階にあった。巨大な窓が、外からの陽気を取り込むせいか、存外温かい。 冷えた体が太陽に温められて、空腹を煽るように体温が上昇した。

テーブルに着くと、紫雨の犬がぴょいっと飛びのった。子供用の足の高い椅子に。もしかすると、制服と同じ 特別製なのかもしれない。
「素敵な演出だろ?この建物は、黒くて寒いからすげえいいよなっ、おっきな窓がおひさんをいっぱい、取り込んでくれてさ! 俺いっつも飯の時が楽しみなんだぁ、んー、くんくん、この臭いはぁ・・・・」

丸い瞳を、潤ませて言いかける犬を見て、俺は赤雷がいないことに気が付いた。さっき 橙次に無責任だって言われたけど。
「へっへへー、今日はあれかぁ、青馬にも教えてあげようかなぁ、この嗅覚で いち早く嗅ぎつけた、今日のめにゅうを。今日はオムライスだぜ!」
俺は無責任じゃない。それに、俺は赤雷を、守らないといけない気がした。 だから腹を決めて、部屋に戻った。

真っ暗な部屋の中で、赤雷は震えながら寝ていた。
「おい、赤雷起きろ」
声を発すると、吐く息が白い。つい先刻よりさらに温度が、下がっている? これではまるで、冬の山だ、雪山。まだ夏なのに。

俺は昨夜見た、洋画に思いを馳せた。 次の日から始まる、新しい生活を前に寝付けなかったから見た映画は、 極寒の山で遭難しそうになっている主人公達が、下山するまでの格闘を描いていた。 画面の中の役者と自分とが、今日になって重なって。
俺にあの台詞を吐かせた。

「起きろよ、赤雷!寝たら・・・・死ぬぞ!」
実際に自身の口で発した言葉は、俺に本当にこのまま放っておいたら、死んでしまいそうな呪縛を与え、俺の瞼は熱くなった。 この熱を赤雷にも、分けてやれたらいいのに。赤雷の体は部屋の冷気に晒されて、冷たい。 (緊張したらハッカするんだ)不意に赤雷の言葉が脳裏に、甦って。 俺は今緊張していた、ゆすっても、ゆすっても、赤雷が起きないから、このまま永遠に 目覚めないんじゃないかと、冷気の中に封じ込められてしまうんじゃないかと、 胸が痛くて。胸に手を当てると、固い感触があった。
薄荷だ。包みを剥がすと、俺は迷わずそれを、赤雷の咥内に押し込んだ。
ハッカしてくれ・・・・ 祈るようにそれを、願う。緊張すると、ハッカして、熱くなる。よくわかんないけど、 そういうことみたいだから、俺は今こそ、熱くなってくれと、願う。
口がもごもごと動き、赤雷の目が開いた。
「くち、の中、に・・・・なにこれぇ、すぅすぅする、むぐっ!」
「起きたのか赤雷、起きたのか・・・・」
俺のまなこからは、涙が溢れていた。
ああ、分かった。なんで俺が赤雷が、気に掛かるのか。こいつはなんか川に、似てるんだ。 今日から俺はこいつの番人だ、世話をするんだ、決めた。
完全に覚醒した赤雷は、目を白黒させてて、妙な表情をしてたけど、この寒い部屋から 一刻も早く温かいあの食堂に、連れていきたくて。引き摺るように赤雷を、運んだ。
入り口まで来たところで、知らないおじさんとすれ違った。
「ちこくま・・・・」
耳元で囁くように、吐き出された言葉は。よく聞き取れなくて。遅刻魔?

食卓に腰かけると、既にがつがつと貪って食事中の紫雨が、俺達二人を睨め付けた。 犬は舌で、顔をぺろりと舐めてから言った。
「まぁた、俺のこと置いてった!どこ行ってた・・・・ああ、そいつを連れてきたのか」
赤雷に視線を移すと、まだ変な顔をしていた。
「口の中が・・・・すぅ、すぅー・・・・」
何かを、言いかけたまま赤雷は、寝てしまった。
「あっちゃーぃ、寝ちゃったよこいつ。せっかくの飯が・・・・冷めちゃうし、先に食べよ」
そう言うと紫雨は、赤雷の食事に手をつけだしたから、俺も冷めない内に食べることにした。